2006年03月10日
少年時代8
母のこと
僕の母は、とてもちっちゃい人でした。いつも足のサイズを気にしていて
「あぁ・・わたしの足は8モン半しかない」とか「靴を買いに行きたくない」
などとため息ついていました。
身長は140数センチしかなくて、手も小さく顔もちっちゃい人です。
そんなとてもちっちゃい母ですが、とてもやさしくてかわいい人でした。
すでに30年ほど前に他界したけど、いまだに「あなたのお母さんはいい人やった」
とか、「生きていたら・・あんたらあも幸せやったろうに」などと聞きます。
いや、いま不幸というわけじゃありませんが、親父殿が後添えを貰ったから
変な気を使ってくれるんですね。
僕の母は、岐阜県東白川村というところからお嫁に来ていたけど、高知の無骨な
親父とどうやって知り合ったかといえば、戦時中満州の開拓村で恋をしたらしい。
とても苦労をした様子で、特に引き揚げのさいには僕らをリュックサックに入れて
守ってくれたとか・・当時は中国人がこどもをくれ・・こどもは置いていけと
さかんに迫ってきたけど、渡すもんかなにがなんでも日本に連れて帰ると命がけで
逃げてきたと教えてくれた。
昭和28年ぼくが3歳、妹が1歳のときである。もちろんそんな小さい頃の記憶は
ありませんが、引き揚げてきて高知の親父の実家に住むことになっても、すでに
父親のお墓があったので、祖母にずいぶんいじめられていた。
母は、9人兄弟の長女であり両親を助けながら、下の兄弟の面倒を見るためろくに
学校なんて行けなかったと話してくれた。
そして満州開拓団として中国に渡り、そこでも考えられないような苦しい生活を
していたらしいが、太陽が地平線からあらわれて地平線に消えていくものすごい
広大な大地は素晴らしいと・・一度見て来るといい、日本はせまい。こんなせまい
日本で暮らすなとも言っていた。たぶん向こうでの生活は厳しかっただろうけど
戦争というものが無かったら母はおおらかに豊かな人生を送っていたのだろう。
そんな母は祖母のいじめにも負けず、僕らを大切に育ててくれた。叱られたという
記憶がありません。ぼくが喧嘩をしたり、近所に迷惑かけるとぼくの手をひいて
一軒一軒謝りに行くのである。そんなときぼくはもう二度と母を泣かせないと心に
誓うけど、3歳まで満州にいたせいか中国語と日本語が交じったり発音がおかし
かったりするものだから、からかわれたりしてつい喧嘩になるのである。どこかに
負けたらずっといじめに合う気がしてたのかな、やられても負けなかった。
だから、ほんとうに母に迷惑かけていたと思う。
ひとしきり近所をまわって家に帰っても母は叱らなかった。むしろ「ごめんね」と
言いいながら、「乱暴はしてはいけないよ。がまんするという強い子になってね」
と諭されていたのである。しかし高校を卒業するまで母が謝りにいくようなことが
続いていたから、きかん子やったろうねえ・・
朝から夜中まで、ずーっと働きづめの母が薪を作ろうとして鋸で薪を切っていた
とき、幼いぼくが周りで遊んでいて母のひく鋸で指を切ってしまったことがあった。
かなりの深手で指はプランと垂れ下がり、おびただしい血が流れた。
すぐさま異様に気がついた祖母が、母をこっぴどく叱りその薪で殴ろうとする。
母は必死で僕を守りながら謝っていた。
薬も無く医者にも行けずヨモギを巻き包帯でしばったままの手当てだったけど
自分の指の事より母をいじめる祖母に憎悪を感じていたから、我慢できたと思う。
何度か熱がでたりしながらも寝ずに看病してくれた母が包帯をかえるたびに
ごめんねという言葉がつらかったという記憶が残っている。
いまでもこの指は第一関節から曲がらないけれど、この傷があるから母のことは
忘れないでいられる。
続く・・・
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なんだか・・泣けてきた〜また、読ませて
ください。楽しみにしています。
ありがとうございます。ちょっとしめっぽい
日記は、おもしろくないと思うけど
書いてみたかったのよ。
みなおさんへ
初めまして・・コメントありがとうございます。振り返る年齢になってみて、いろんな
ことに感謝できるものなんだなあって、この頃
思ってます。この日記もそのひとつなんです。