2006年05月19日

少年時代14


しっとりと雨にたたずむ我が家の花たち。

DSC05974.jpg

雨はときに洪水をもたらし、人々を苦しめる。

だけど、恵みの雨だって多い。

ぼくの子ども時代、大水が出ると忘れられない思い出がある。

それは、夏が終わる頃の話しだけど、この頃になるとそろそろ

うなぎやカニたちは産卵のために川を下り始めるのだ。

大水が出るとその流れに乗って一斉に下るのを、村の人々は

知っていて、「明日は絶好の日和じゃ、みんな用意しておけよ」と

伝令がやってくる。

男達は、直径が1.5bくらいで長さが3bくらいの大きな

竹籠を用意する。その他には杭やロープ、スコップやハンマー

など、それぞれ仕事の分担を決めて川に行くのだ。


川は大水の影響で、いつもよりは勢いがえい。「あそこはどうじゃ」

「いやあの瀬がいいなあ」などといってこの巨大な籠の設営場所

選びから始まる。つまり下る魚たちが集中的にそこを通る場所を

選ぶわけである。「よっしゃあ、ここにするぞー」と決めると

まず、杭を打ち込み縄がけの準備が出来ると「よし、こい」と合図。

すると、「ほりゃあいくぞー」といって、巨大な籠が投入される。

大水に流されないように、しっかりと籠を設営して一晩待つのである。


翌日女も子ども達も全員で、てんでにバケツや魚籠など提げて仕掛けの

場所に集合する。ウナギを挟むうわしやカニ専用の籠や小さな網など・・

みんな期待でワクワクしている訳で表情もすごい。

これからおこる出来事に対して、まるで戦闘状態だから。

やがて、男達が大勢しかけてあった巨大な籠を持ち上げ陸にあげると

籠の中を掻き出す。「ほりゃあでたぞー」葉っぱや草などのゴミも多いが

魚やカニ、うなぎやエビなどがうじゃうじゃそこらあたり這いずりまわる

のである。

こじゃんと入ってる。捕っても捕っても出てくるからまさに大漁なのだ。


ほんとうにすごかった。とくにキラキラと光る川エビの群れには感動した。

そしてこれらの収穫をあらゆる料理にとりかかる。

川エビの煮付けやカニ汁にうなぎの蒲焼き。ぼくらは炭をおこしたり

けっこう仕事もあった。男達は冷や酒を煽りながら何人もでウナギを捌く。

すぐさま七輪で焼く。生きてるうなぎは七輪のうえでキューッと縮み

刷毛でタレを塗りながら何匹でも食べれた。うまかったなあ・・

エビの佃煮は熱いご飯に載せていただくと何杯でも食べれた。

カニは石臼で突いて、りゅうきゅうやナスを入れて汁に・・

料理はすべて外でしてた。薪で煮炊きをし炭火で焼き物だから

煙がただよい、火の匂いやお酢やタレの匂いなども味となって

からだに染みこむのである。もちろんごはんも焚く。

慣れているのか手際が良かったなあ・・

当然、胃袋はパンパンになって大満足である。いまでもあの味は

忘れることができない。


みんなで獲物を捕る。みんなで料理していただく。ふだんは百姓仕事に

毎日追われる人々の至福のひとときなのだ。

いまなら解る・・なんぼか酒がうまかったやろうねえって。

夜が更けるまで明るい賑やかな声が続き、幸せな日々だったよ。


自然は、ときに荒れ狂うけれど、こうした恩恵も受けていたのだ。

豊かな自然環境を取り戻したいモノだとつくづく思うねえ・・・



posted by わくわく村長 at 11:06| 高知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月06日

少年時代11


村の掟


僕の子ども時代、この頃って地域が助け合って知恵を出し合いながら

うまく人間関係を確立していた社会をつくっていたように思う。

そんな制度を生きる知恵として合理的に、しかも守らなければならない

絶対的な掟として皆が認め合うことによって、ひとつの社会が成立して

いたような、そんな気がするんだ。


例えば、仕事にしても今日近所の手伝いをしたら、次には自分の仕事

手伝ってくれるシステムがあった。

これを「いい」と呼ぶ。語源は詳しく知らないけれど、たぶん「結い」

から来ているように思う。これには、結びあう、あるいはもよいあうと

いった独特の助け合い精神のようなものがあり、賃金で雇うではなく

「お互いさま」だからと、それがあたりまえのように理解し合ってた。

子ども達だって大人のこういった社会を毎日のように見てきているから

どこかに子どもながらの義理や人情みたいのものが身に付いていったと

思われる。


こうした掟の中に忘れられない制度がある。

それは、神祭りとかその他、村の行事で宴会があるときのこと。

子ども達も一緒の宴会だから、よく覚えているけど始まりは普通に

誰かの挨拶から始まり、賑やかに楽しく盛り上がっていく。


土佐の宴会と言えば「箸拳」である。

これは3本のお箸を使ってじゃんけんをする。単純なゲームだが

相手の表情を読んだり、お箸の握り方などなかなか奥が深い。

負けるとなみなみと注がれたお酒の一気のみが待っている。酔いなが

らのゲームだから、次第にエスカレートして声も荒くなる。そして

およそ2時間くらいもすると、お酒のせいなのか決まって酔いすぎて

グチやら酔狂する人が現れるもの・・

すると、それを見て「謡い」がはじまるんだ。

あの独特の節回しでいて、なんとなくおごそかな空気は突然村人達に

緊張感を呼び起こさせ、全員が正座して声を合わせるんだ。

するとこの酔狂おじさんもしっかり正座して声を合わせているでは

ないか。つまりこれは宴会の締めとして重要な役割を示しているわけで

ここから先は乱れさせないというか、いつだってルールは大切なんだ

という必要不可欠な掟なのだろう。


こうした地域がうまくつきあっていくルールって現代社会では困難に

なってきていると思う。

個々の主張ばかりが目に付き、相手を思いやる気持ちやその場の空気が

理解できない、いや理解しようとしない人たちが増えてきて、混乱を

招いているのだ。いつからそうなったのだろう?豊かな現代かも知れない

が、僕には昔の地域社会が懐かしく好きである。

「ルールを守る」そんな単純なことでも教育しなければ理解できないから

やっかいな時代になったものだと嘆かざるを得ない。







posted by わくわく村長 at 00:14| 高知 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月18日

少年時代10


母のこと3

息子さんですか?院長先生からお話がありますからこちらへどうぞ

看護婦さんの神妙な態度に、不安が全身を襲ってくる。

母が倒れて入院して一週間後のことである。

病院での母は、心配かけまいと終始笑顔で気丈な態度とっていた。

だけど、なぜか不安があり普通とは違ってみせるやつれ方に

検査の結果が怖かった・・


院長先生はおだやかな口調でこう切り出した。

「あなたのお母さんは立派な方ですね、病院内でも評判ですよ」

そうですか、と云いながらも静かな口調がよけいに不気味さを感じ

させていた。

「どうやら、息子さんもしっかりされているみたいだから・・

ハッキリ言います。癌の値が非常に高い数値を示していますし

発生場所も肝臓であり、しかも手術も困難な場所にあります。」

この言葉にもう次の言葉など聞けない状態に頭の中が真っ白になった。

「なんとかならないですか?」

「3人の医師達と助ける方法を連日検討したけど、たいへん難しい

という結論です。手術をしても・・その先は保証できない、残念です」

「どのくらい生きれるんですか?」って聞くのが精一杯だった。

「お母さんの体力では・・手術にも耐えられるかどうかわかりません

 もって2ヶ月でしょうか」と先生も悲しげに目を向けられた。

「解りました。体重も30数キロとすくないし、切り刻んで苦しめる

くらいなら・・それでも助からないと云うなら、このまま静かに

 見送ります・・」とボロボロ泪を流しながらそう言ってしまった。

先生も泪流しながら「君は親戚中から避難を受けたり、辛くなるかも

しれないよ・・それを一身に受けるんですか」

「いいんです。母はきっと理解してくれると思うし、いやです。母を

 これ以上苦しめたくないから・・」

「病院は全力で延命に力を尽くしますから・・」と泣いてくれた院長

後ろで婦長も泣いていた。


それからは病院で時間をつくっては母とあれこれ話しをした。

できるだけ、元気にできるだけ明るい話題で。

わりあいに楽しい時でもあった。時々母は、ちいさい声でごめんね

と云いながら、あんたのお嫁さん見たかったなあとか、お父さんが

きっとあんたに迷惑かけていくやろうねえとか云っていたから自分の

死期はわかっていたんだろうねえ。


ある日そろそろ母の日がやってくる頃、母は家に帰りたいと言い出した。

院長先生に相談し、痛み止めの注射もあずかりして連れて帰ることに。


抱き上げて車まで行こうとしたら、あまりの軽さに不覚にも涙が落ちた。

母は、「あぁうれしい」と云いながら僕の顔見つめている。

こんなに痩せてしまって、病気が憎くてたまらなかった。

それから一週間後少しほほえみながら静かに息をひきとった。

苦労に苦労をかさね、最後まで子どもに愛情を傾けて「ごめんね」

が最後の言葉になった。

親戚からは避難を受けたけど、あのやせ細った身体にメスを入れなくて

良かったといまでも思っているし、母の心はしっかり僕のなかに

生きているのだ。




posted by わくわく村長 at 17:47| 高知 ☔| Comment(5) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

少年時代9


母のこと2


雨が降ると、ときおり想い出す母のこと。

雨の日は母が家にいて、一緒に居ることが出来たし

針仕事の合間におやつを作ってくれたり、自分のこと話して

くれたりしてたから、いまでも恋しがっているのかもしれない・・


母は、旧満州時代向こうで饅頭やお菓子あるいは餃子や納豆など

中華風のモノが得意だった様子で、年末には我が家はお餅ではなく

餃子をたくさん仕込んでいた。

餡を2〜3日前から仕込む。ニラやにんにくなど混ぜ込み

寝かすのである。そして、餃子の皮も自分で作り一緒に伸ばして

やたらとでかい餃子を並べていく。これが、おもしろかった。

それを蒸していただくのだ。ちょっと臭みもあったけど

ほんとうに美味しい餃子で、いまでもその味が忘れられなくて

あんまり店頭のモノは食べられないでいる。


中学生の頃になると、いよいよ手がつけられないくらいの

きかん坊となっていたぼくは、家庭裁判所にまで連れていかれる

ほどだった。さすがに母も気が滅入りして叱らないけれど悲しい

顔が何日も続いたり、ため息混じりに「あんたはどんな人になるやろねぇ」

「どんなに正しいと思っても暴力は負けだから」などと云いながら、

母の目からこぼれる一筋の泪に心が痛んだものだ。


理由はない・・だけど正直言って貧乏が辛かった。

それは、自分が辛いのではなく自分のことは全部すてて、すべてを

子どものためにと犠牲にしている母の心情が痛いほど解るだけに

何もしてやれない自分の気持ちに行き所がなかったのである。


社会人になって、初めて両親と3人でプチ旅行した。

ぼくは、多少お金持っていたし、できるだけ母に贅沢して欲しくて

美味しいモノあれこれ注文した・・・

だけど母は、あまり食べずにぼくにせっせとあれこれよそって世話

がるのだ。ぼくは少し悲しくなって「いいから食べろよ、俺のことは

いいから」と詰め寄ってしまった。元来不器用だから言葉でうまく伝え

られずに、ついきつい言い回しだったから、「違うそうじゃないんだ

そんなこと云いたいんじゃない」って思いながら・・・・

不覚にも涙が落ちて気まずい空気がただよい、せっかくの旅も暗い

感じになり、自分を責めずにはいられなかった。母は、どうあっても

母の姿勢であり、徹底的に子どもを愛し、自分のことは後回しにして

しまうという心は、ありがたくも悲しい思い出でもある。


そんな母が、ある日大量の鼻血を流して倒れてしまう・・

                     続く




posted by わくわく村長 at 15:11| 高知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月10日

少年時代8


母のこと

僕の母は、とてもちっちゃい人でした。いつも足のサイズを気にしていて

「あぁ・・わたしの足は8モン半しかない」とか「靴を買いに行きたくない」

などとため息ついていました。

身長は140数センチしかなくて、手も小さく顔もちっちゃい人です。

そんなとてもちっちゃい母ですが、とてもやさしくてかわいい人でした。

すでに30年ほど前に他界したけど、いまだに「あなたのお母さんはいい人やった」

とか、「生きていたら・・あんたらあも幸せやったろうに」などと聞きます。

いや、いま不幸というわけじゃありませんが、親父殿が後添えを貰ったから

変な気を使ってくれるんですね。


僕の母は、岐阜県東白川村というところからお嫁に来ていたけど、高知の無骨な

親父とどうやって知り合ったかといえば、戦時中満州の開拓村で恋をしたらしい。

とても苦労をした様子で、特に引き揚げのさいには僕らをリュックサックに入れて

守ってくれたとか・・当時は中国人がこどもをくれ・・こどもは置いていけと

さかんに迫ってきたけど、渡すもんかなにがなんでも日本に連れて帰ると命がけで

逃げてきたと教えてくれた。

昭和28年ぼくが3歳、妹が1歳のときである。もちろんそんな小さい頃の記憶は

ありませんが、引き揚げてきて高知の親父の実家に住むことになっても、すでに

父親のお墓があったので、祖母にずいぶんいじめられていた。


母は、9人兄弟の長女であり両親を助けながら、下の兄弟の面倒を見るためろくに

学校なんて行けなかったと話してくれた。

そして満州開拓団として中国に渡り、そこでも考えられないような苦しい生活を

していたらしいが、太陽が地平線からあらわれて地平線に消えていくものすごい

広大な大地は素晴らしいと・・一度見て来るといい、日本はせまい。こんなせまい

日本で暮らすなとも言っていた。たぶん向こうでの生活は厳しかっただろうけど

戦争というものが無かったら母はおおらかに豊かな人生を送っていたのだろう。


そんな母は祖母のいじめにも負けず、僕らを大切に育ててくれた。叱られたという

記憶がありません。ぼくが喧嘩をしたり、近所に迷惑かけるとぼくの手をひいて

一軒一軒謝りに行くのである。そんなときぼくはもう二度と母を泣かせないと心に

誓うけど、3歳まで満州にいたせいか中国語と日本語が交じったり発音がおかし

かったりするものだから、からかわれたりしてつい喧嘩になるのである。どこかに

負けたらずっといじめに合う気がしてたのかな、やられても負けなかった。

だから、ほんとうに母に迷惑かけていたと思う。

ひとしきり近所をまわって家に帰っても母は叱らなかった。むしろ「ごめんね」と

言いいながら、「乱暴はしてはいけないよ。がまんするという強い子になってね」

と諭されていたのである。しかし高校を卒業するまで母が謝りにいくようなことが

続いていたから、きかん子やったろうねえ・・


朝から夜中まで、ずーっと働きづめの母が薪を作ろうとして鋸で薪を切っていた

とき、幼いぼくが周りで遊んでいて母のひく鋸で指を切ってしまったことがあった。

かなりの深手で指はプランと垂れ下がり、おびただしい血が流れた。

すぐさま異様に気がついた祖母が、母をこっぴどく叱りその薪で殴ろうとする。

母は必死で僕を守りながら謝っていた。

薬も無く医者にも行けずヨモギを巻き包帯でしばったままの手当てだったけど

自分の指の事より母をいじめる祖母に憎悪を感じていたから、我慢できたと思う。

何度か熱がでたりしながらも寝ずに看病してくれた母が包帯をかえるたびに

ごめんねという言葉がつらかったという記憶が残っている。

いまでもこの指は第一関節から曲がらないけれど、この傷があるから母のことは

忘れないでいられる。

                          続く・・・
posted by わくわく村長 at 14:07| 高知 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月11日

少年時代7


テレビがやってきた。


昭和32年頃、つまり小学校1年生頃といえば、テレビは白黒。

しかも、各家庭になどない時代。僕の記憶では、集落に一軒だけ

あって、その家庭で皇太子殿下の結婚式を見たはず。

そして、昭和35年には東芝、三菱、日立家電などがカラーテレビ

をこぞって発売する。

我が家では親父がかなり無理したと思うけれど、なぜかカラーテレビ

を購入したのである。


いよいよ、テレビが到着した日。

家族全員がそわそわと落ち着かない。「映るのか、ほんとに映るのか」

と近所中がワイワイがやがやと騒ぎ立てる。

「まあ、待ちよれや・・いまに映るき」と電気屋もうんざり、ニコニコ。

長い時間かけて、アンテナ立てたり配線したり・・ちっ(怒った顔)

ものすごく長いと感じる。みんなイライラ・・と、何を思ったか

親父殿は、一升瓶片手に庭に座り込むと、皆を手招きして酒を酌み交わす

のである。みんなも触発され、気を静めるように呑んでた。


「やったー、映ったぞー」の声に一斉に立ち上がりテレビの前に行くと

なんとプロレス中継が映し出され、力動山の勇姿が画面いっぱいだ。

空手チョップするたびに歓声があがって大盛況である。わーい(嬉しい顔)

親父殿は、得意満面になりながらグビグビ酒を呑んでた。


それからというもの、雨の日などは朝から近所が集まり、酒を呑みながら

テレビ観戦が続くのである。

ぼくらはテレビを見る時間が決められた。一日2時間くらいなのだが

あまり見ることもなかった。なぜなら、このテレビはおとなの時間みたいな

雰囲気があったからだ。それでも、夏休みなどは朝晩に子ども向け番組

観てたなあ・・


番組の内容はといえば、月光仮面、風小僧、怪傑ハリマオ、少年探偵団など

が、小学校の頃の思い出である。

中学校になると、洋画映画なども放映されていたと思う。

自転車泥棒なんて映画をみたような気がするけど、さだかではない。

テレビの影響はすごかった。なんでも真似して遊んでたと思うし、子ども達は

みんな、ふろしきを背中に羽織って月光仮面になりきってたよ。

画面の中のことが全部身近にあるような気がしてたし、いつかヒーローに

会えると信じてたからねえ。


生活も変わってきた。

両親が夜遅くまで働いていたから、いつも淋しかった生活から

テレビのおかげで寂しさからも、逃れられるようになっていた。

それでもやっぱり家族が揃っての時間がいちばん嬉しかったけどねえ。


この頃から情報というモノはテレビが一番速く伝わって来たし、必然的に

テレビを頼りにしていくことになる。

だから我が家で一番頼もしい存在であり、一家団欒の時を作ってくれていた

テレビこそが中心的な役割を示していたと思われる。



いまでも、相撲やプロレス番組をみると、近所が集まって酒酌み交わしながら

みんなが評論家であり、解説者になっていたことがおかしく思い出されるし

ときには白熱して喧嘩騒ぎまでやってのけた、あの時代がなつかしい。

posted by わくわく村長 at 01:22| 高知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月04日

少年時代6


 小遣いは自分で稼げ

 
 僕の小学生頃の小遣いと云えば、一日に10円くらいだったなあ。

 それも満足には貰えなかったけど・・10円で何が買えたのだろう。

 飴がたしか1円で3個とか、5円くらいのお菓子が多かったような

 そんな感じだった。あまり覚えていないのは、そんなに買った記憶が

 ないからだ。

 サンマ一匹が10円で、どちらかというとお菓子なんかより、そんな

 モノを買っていたと思う。

 家庭が豊かでないことぐらいは、しっかり理解してたから両親にそう

 そう小遣いの請求なんてことも出来なかったのだ。


 だとしたら、自分で稼ぐしかない。


 春には、山菜を採り市場に出す。市場っていったって近くにあるわけ

 ないから、道路脇に名前書いて出しておくと集荷にやってきて、週末に

 お金が届くという仕組みである。もちろんたいした額にはならないけど

 嬉しかった。これが春休みのこと。


 夏には、モジといって

 竹筒にセルロイドの間仕切りした、ウナギの仕掛けを川に沈める。

 餌はオタマジャクシやミミズである。

 早朝に川へ仕掛けを上げに行くのが楽しみで、そーっと水から持ち上げ

 斜めに水を出しながら音を確かめる。

 トンと竹筒のなかでウナギの手応えを感じたときの瞬間は小躍りするくらい

 嬉しかった。何匹もいっぺんに入っているときは音もせず、ただ重たくて

 家に帰って竹筒を割らなけらばならない。

 そんなときは、これがたまるかと思うくらいぎっしりと何匹も入っているのだ。


 また、カニ籠も仕掛けておく。

 親父とふたりで籠を担って帰るくらい、ぎっしりとカニは捕れた。

 家には、水槽があり、そこにはウナギとカニがあふれんばかりだった。

 これは、川料理専門店が買い付けに来ていたけど、多めに目方計っても文句

 なしに毎日捕れたのである。いくらで売ってたか覚えてないけど、かなりの

 収益になっていたはず。


 秋から冬にかけてはわさを山に仕掛ける。

 これはバラしていいかどうか?つまり、野鳥を捕るのである。

 ドングリを食べに来る青鳩や水を飲みに来るツグミなど、多いときには

 一日30羽ほど・・これをハトが一羽50円とかで売るのだ。

 現代だと逮捕されちゃうなあわーい(嬉しい顔)

 
 まったくたくましい生き方をしてたものである。自然が豊かなゆえの生活の知恵と

 子どもながらに自分で生きるみたいな根性が身に付いていったものだ。

 だけど、どのくらいお金が貯まったのか記憶がないから、たぶん飲んだくれの

 親父の酒代になった気がするし、自分で何かを買ったなんて記憶がない。

 モノを買ったのはもう少し先のことだったから。



 

 

 
 
 

 


 

 
 

 

 
posted by わくわく村長 at 11:10| 高知 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月02日

少年時代5


宿題より家事手伝い


  昭和30年代当時は、どの家庭も懸命に働いていた。

   子どもだってやることがたくさんある。

 
 家の家族構成はといえば、両親とぼくと妹、それに牛が一頭

 犬が一匹、にわとりが数羽である。あっ・・三毛猫が一匹も。

 といってもこの家族構成ができたのは小学4年生頃だから

 はじめは、やっぱり4人だけの家族でした。


 学校から帰ると、まず牛に餌を与えなければならない。

 これがたいへんな作業である。そりゃあなんてたって相手が牛ですから

 食べる量が多い訳で、茅などをハミキリと呼ばれる大型の押し切り歯で

 3pくらいに切り刻み、それに米ぬかなど加えて混ぜる。

 それをハミオケに入れて食べさすわけ・・

 それが終わると近くの谷川から天秤棒にバケツを担いして風呂水を

 運ばなきゃならない。これがたいへんな重労働である。

 バランスが悪いと水バケツが左右交互に揺れて、ビショビショに濡れるし

 こぼれる分だけ谷川に通う回数が増えるわけで、できるだけそーっと

 歩くと、今度は肩が悲鳴をあげるのだ。

 15回ぐらいは通って、やっと溜まったら薪で沸かさなきゃならない。

 これが、意外と燃えにくくて・・・

 
 さらに、にわとりにも餌をやり、台所チェック。お釜を開けてごはんが

 無かったらお米を研いで焚かなきゃならず、しかも、炊きあがるまで火の

 調節したりと離れることもできないんだ。

 宿題なんてしようと思う頃には眠ってしまう始末。

 でも、そんなぼくが眠っていると、いつの間にか帰ってきた母がやさしく

 そーっと抱いて、ごめんねって言いながらしばらくはそうしてくれてた。

 ぼくは、気づいていてもその心地よさに眠ったふりしてたものだ。

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 両親は農業しながら、炭を焼いたり出稼ぎしたりと大雨でも無い限りは

 家に居ることがなかった。だから、たまに雨でも降って家に母がいると

 縫い物したりしている傍で、一日中学校のことや遊びのことなど喋り続け

 てたけど、母はニコニコしながらずーっと相手してくれたなあ。

 
 当時はどの子も家庭を手伝うのは当たり前というより、言われなくても

 することが自然なかたちで、誰も不満をいうことはなかった。

 学校だってそんな環境は解っているから、宿題してなくても叱ることなく

 先生と一緒に問題を解いたり、そこから自然に授業に入っていったりして

 まるで女先生が母親であり、男先生が父親という役目で学校と言うより

 大家族のような雰囲気であった。

 それでも、学校に蛇や蛙、トカゲやもぐらなど持ち込んでは女先生に叱られ

 男先生にたしなめられては、近くの草むらに離してやったりしてたから

 女先生に甘えていたかも。

 
 ぼくのこころの奥にある遠いふるさと。ときおり、どこからか声が聞こえる。

 にぎやかな子ども達の声が・・母のやさしい声がね。

 ふるさとがあるっていいもんです。
 

 
posted by わくわく村長 at 10:10| 高知 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月31日

少年時代4


運動会は戦いじゃぁパンチ

 学芸会が村いちばんの娯楽としたら

 運動会は、一転して昨日の友は今日の敵となり

 村をあげて戦いの場となるんだ。まあ、ちょっぴり誇大表現かもしれないが・・・

 
 運動会だってこどもたちはたいへんだ。

 選手はもちろんのこと、進行役からBGM係りなどひとり何役もこなす。

 僕の村は、下組、中組、上組とにだいたい分かれていて、それぞれに神社も

 ありました。たぶん、農作業やまつり事などは組み単位で共同作業することが

 多かったと思うから、どこかに負けたくない意識は働いていたろうねえ。

 運動会は、紅白に分かれているだけですから、「赤勝てー」「白勝てー」の

 声援ですが、いつの間にかこの組み単位が白熱してくるんだ。


 僕は走ることが得意だった。短距離も長距離もどちらも速かったよ。

 だから、この種目だけに力を入れていた訳だけど、これには深い訳もあった。

 僕の祖母は、母をいつもいじめていたし、僕等兄妹もずいぶん叱られていたのだ。

 それは、両親が僕等を連れて父親の実家に満州から引き上げてきたとき

 村では戦死したとばかり思っていたみたいで、すでに葬式も済んでたらしい。

 昭和28年引き上げとなれば、かなり遅い帰国だったからだ。

 どうやら祖母にしたらみっともない生き恥じゃということらしい・・

 それが原因かどうかは定かではないけど、なにかにつけては祖母にきらわれた。

 だから、僕は運動会などは絶対に負けないようにして見返したかったんだ。

 一番になると、祖母は大声で「ようやった、さすがあていの孫じゃ」と

 周囲に威張っているのだ。でも僕はそうではなくて、これで少しでも母を

 じぶんたちをいじめないでと心の中で祈っていたものだ。


 僕は、レコードかけながら進行などもやっていた。このレコードがやっかいだ。

 レコードには針がある。しかも昔のことですから、まるで釘のように大きくて

 なぜか減りやすい。雑音ばかりになるとこの針も換えなきゃならないのだ。

 いらんところに神経も使いながら、マイク持ってプログラムの案内もしたり

 大道具、小道具だって準備しなくてはならないから大忙しだったなあ。

 
 勝負は、だんだんエスカレートし、「ええかやあいつには負けるなよ」

 「この種目はこうせえ」などといった指示までおとな達からでることも・・

 中には見方のチームメイトもライバルにさせられたりするんだ。

 まあ、心のなかではたいして大人のことなんか聞いてなかったけど・・

 そして、負けた方へのやじまでが出る始末だから種目の最後のリレー

 なんかになると、「いけー」「負けるなー」と全員総立ちでやっかましいの。

 谷間が声援で割れんばかりにこだまし、まさにここは戦場である。

 闘い終われば、何事もなかったかのように・・そう宴会が待っているのだ。


 現在では、源平合戦のような運動会はけしからんという人もあるけれど

 ここでは、これが村の生き様だったのだろう。

 おもしろかったなあってしみじみ振り返ると同時にあれはほんとうに

 自分たちのことじゃったやろうかと思ったりする。



 

 

 

 
posted by わくわく村長 at 11:32| 高知 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月27日

少年時代3


授業より大切なこと

先生は授業より学校行事に異様に燃えていた。

学校行事の主なモノは、入学、卒業式。そして運動会や遠足といったところ。

ところが、極め付きの行事があった。

       学芸会である。

学芸会というのは、いわば演芸会であるが、こどもたちが行う

劇や、唄、踊りなどといった芸能を舞台で披露する訳だ。

これは、村中の人々が唯一楽しみにしている行事であり、村をあげて

取り組む一大イベントだったのだ。


男先生は特に力をいれていた。

準備だってたいへんである。教室にて夜遅くまで母親達が集まって

衣装を縫ったり、舞台の大道具や小道具を作るんだから・・

こどもたちもたいへん。なにしろ児童数が少ないから、主役から裏方まで

みんなでこなさなくてはならない。

思えば、これが現在行っている演芸会などの裏方などに役立っているんやろな。

写真で見ると、ぼくなんかスカートはいて女の子になって踊ってるよ。

       はずかしい〜。がく〜(落胆した顔)


この時代は、極端に娯楽が少なかった。そりゃあ時には、浪曲師や踊り

みたいなものは来てたけど、全体的には娯楽に飢えていたかもしれない。

テレビだって村には2台くらいしかなかったから、もてはやされていたものだ。

なぜか、うちにあったけど・・・だから、学芸会は学校行事と云うより、

   村の最大娯楽

                   だったに違いない。


季節は11月頃だったと思う。稲刈りが終わる頃だよ。

当日は、早くから教室にざぶとん持ってきてお年寄りたちが陣取る。

こどもが舞台に登場すると拍手喝采はいうまでもない。

「キャーうちの子やー」「あんたんくの子もおるでー」

「00ちゃんかわいい」「がんばりやー」などとワイワイ・・

もちろん狭い教室には座れないくらいの村の人々だけど、舞台と

異様に近いから声援もヤジもすべて筒抜けなんだ。

でも、一生懸命何かに取り憑かれたように必死だったと思う。


男先生が学芸会に力を入れていたのには訳があった。

学芸会が終われば、宴会が待っているのだ。

教室は、あっという間にきれいに片づけられ、村中あげて打ち上げ会に変わる。

     こどもたちも、もちろん参加。

この日ばかりは、おいしいごちそうが腹一杯に食べれるんだわーい(嬉しい顔)

モロブタと呼ばれる80pくらいの木で作られた容器に、お寿司や羊羹など

あざやかに盛りつけられたものが、ずら〜りと並べられてあった。

もうそれを見ただけでゾクゾクするくらいに嬉しかったよ。


朝から、料理をしてくれた村の人々に感謝しながら、大宴会の始まり。

これは、ほんとうに嬉しかった。みんなが「00ちゃん良かったよー」とか

言って、とにかく褒めてくれるし、誰しもがやって良かったって気持ちが持てた。

どの子もわけへだてなく、みんなが親であった。そのことが嬉しかったなあ。

でも、やっぱり誰よりも母親に頭なでられながら、幸せを感じていたものだ。


宴会が進むと、箸拳が出たり唄が出たりとものすごいにぎわいをみせる。

そのうちにおとな達から男先生に決まって

「先生、そろそろアレやっとうせや」「そうそうアレやってくれんと終われんき」

とけしかける。

アレというのは、男先生得意の踊り。これが普通の踊りじゃない。

お皿を両手に2枚づつ持って、カチャカチャと鳴らしながら踊ります。

踊り方がとってもひょうきんで、やんややんやの大騒ぎとなり、何人もが

ついて踊る始末がく〜(落胆した顔)

先生も興に乗り、止まることしらないからおもしろかったなあわーい(嬉しい顔)

今にして思えば、男先生は宴会の時決まって紋付き袴だったのは

この踊りのためやったんやねぇ。


いまでは、学校で宴会しようものなら社会問題になりかねないだろうけど

地域と連携した教育としては最高に良い時代に育ったと感謝します。

学校で学ぶ。それは、学問だけではなくさまざまなことが学べるはず・・

ぼくらは課外授業をたくさん学んだのだろう。今日に少なからずとも

山の分校で学んだことが、いまもたくさん活かされていると思うし

こういう学校であってほしいと願ってやまないでいる・・・・。


















posted by わくわく村長 at 11:57| 高知 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月24日

少年時代2


ふたりの先生


     当時の分校は地区集会所になってる。

   ほんとうにここで運動会したり、野外映画なんて

   やってたんだろうかと思うくらい狭いけどなあ・・

     DSC05717.jpg

  この分校で過ごした4年間というのは、現在のぼくの人生の

       土台となっていると思われる。

  それぐらい、影響を受けた分校時代だったと言える。

  なかでも、ふたりの先生の存在が大きかっただろうなあ。

  1〜2年生の担当が女の先生。3〜4年生の担当が男の先生

          と決められていた。

  なかでも、男の先生はほんとうに人間味にあふれるおもしろい

  先生で、お天気の良い日には教室に子どもを閉じこめること

  しなかった。外は、そりゃあ山の中だから自然に囲まれている

  訳で、自然観察や何かの実験にはもってこいなのだ・・・・

  魚を捕ったり、うなぎを釣ったり、あるいは田んぼや山の中で

  遊びやら授業やらわからないような感じでわいわい楽しんだよ。

    たぶん誰よりも先生が楽しんでいたと思うなあ。

  うなぎでも釣ろうものなら、万歳しながら大声で褒めてくれる。

  まてよ・・そういえば、このうなぎどうなったがやろう。

   きっと酒好きな先生の晩酌の肴になったんやろうねえ。

  
   男先生はカメラ持ってた。自慢のカメラなのだ。

  遠足や学校行事などこまめに撮してくれたので、なつかしく

        思い出に浸れるのである。

  昭和30年頃って、想像してみるにかなり高価なモノに

  違いないけど・・ほんとうにたくさん残してくれたなあ。

  でも・・何故だろう。みんなとの写真みると、いつも

     決まって僕は隅のほうでいじけてるふらふら

  ふてくされたその態度は、かなり先生をテコずらせた様子。

   で、機嫌のいい日は決まって両側に女の子が居て

          上機嫌なのだわーい(嬉しい顔)

     あっ・・いまもおんなじや

           って思ってな〜い?ちっ(怒った顔)


  女の先生は怖かったあ。なんか叱られてばかりだった気が

  するけど、雨の日には本を読んでくれたり、オルガンを

       弾いて音楽を聴かせてくれた。

   おかげで、ずっと音楽も本も好きになったのだ。

  でも、女先生はやさしい日と怖い日が交互にあって

  子どもながらに、まずごきげん伺いながらですから

       気を遣ってたよなあ。

  でもでも、すごく懐かしいし会いたいなあって

         思います。

     もうこの世には居ませんが・・


         続く・・・・・・

  


 

  
posted by わくわく村長 at 18:35| 高知 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月22日

記念すべき100回


     やった〜わーい(嬉しい顔)100回記念です

 昨年の6月から書き始めてようやくこの日がきました。

 今日までおつき合いくださった皆様ありがとうございます。

 くじける日々もありましたが、ブログで交流できた新しい人生に

 感激しながら、あるいは励まされながらたどり着けたこと心から

 感謝いたしております。今後ともよろしくお願い致します。

    てなことで、新カテゴリもつくりましたよ。

 ぼちぼち、自分の人生も振り返ってみようかと思ってねえ。


 少年時代 1

 ぼくのこども時代って、現代とはまったく違った環境でしたねえ。

 山奥の分校で小学校4年生まですごしたけれど、いまでは、そこは

 山奥でもないんだなあ。きっと当時は、車社会じゃなかったから歩

 いたり自転車なんかが主流の交通手段ゆえに町から15q程度の距離

 とはいえ、時間がかかり山奥ってことだったんだろうかねえ・・・

 
 分校には1年生から4年生までの全校生徒が20数名だった。先生は、

 男の先生と女の先生ふたりだけ。自転車で通ってた。

 悪天候時には到着するのが10時頃になったり2時頃には帰ったりしてた

 から、必然的に自習時間が多かったりする。もちろん遊びが中心だけど

 いまみたいに時間に負われたり、競争したりなんてことがなかったなあ。


       村は美しかった


 春は幾重にも重なった棚田にレンゲの花が一面に咲き、チョウチョや

 トンボなどが目をつむっても網にはいるくらい飛び交ってたし、蛙なんて

 家の中だろうが庭だろうが、我が物顔でウジャウジャいたよ。

 牛で田んぼをおこし、イネは並んで手で植えるんだ。この光景がなんとも

 好きだったなあ。初夏の風に水田の匂いと、どこからともなく伝わる花の

 香り、そして大声で笑い合う人々の声なんかが混ざって心地よかった。

 みんなつらい生活だったと思うけど、活き活きとしてたねえ。

  
 夏は夕方になると決まって夕立があり、谷間に響き渡る雷のサウンドが

 天を裂かんばかりに怖かったよ。ひとしきりの雨が通り過ぎると

 ヒグラシがもの悲しげにカナカナカナ・・カナカナカナと鳴くんだ。

 うなぎやエビ、カニなんて田んぼへの小さな水路でも簡単に捕まえられる

 ほど居たなあ。蛍もすごかった・・何千匹もが一面に飛び交うし音がするんだ。

 あれは蛍の羽音なんだろうかねえ。表現ができないけど・・・

 電灯を消すと必ず部屋の中に何匹も入っていたもんだし、なぜ蛍は

 あかりを持っているのだろうと不思議だった。


 秋には棚田のイネが黄金色になり、畦を曼珠沙華が赤い帯を巻くんだ。

 ほんとうに美しくいつまでも眺めていたい好きな風景だった。

 刈り取られたイネは天日干しされ、柿の実が色づく頃モミとなる。

  
 やがて厳しい冬が来て、学校では薪ストーブが焚かれその横に

 みんなお弁当を温めていた。静かな山間に始業はじめの鐘がなる・・

 
 こんな村の生活や子どもの頃に悪さもした思い出から綴っていこうかと

 思います。ー(長音記号1)

  

  

 

 

 
posted by わくわく村長 at 01:23| 高知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 村長の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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